花 鳥 風 月 4

「この寺は様々な事情で実母や乳母に棄てられた子等を慰める為に建てられたものです。」

 乗垂じょうすいは半歩ほど後ろを歩く博雅に寺が建立された経緯いきさつを説明した。そして定期的に、「子等」と波長の合う者達に対して慰霊を乞うていることを伝えた。

「かの者は奏じ手としては名手という訳ではありませんが、非常に美しい声の持ち主です。水尾氷晶みずおのきよてる様は、それに惹かれたのかもしれません。」

 それほどの者なら、内裏でも噂になっていてもおかしくはないが、耳にしたことはない。と博雅が言う。それに対して乗垂は、様々な事情がありましてのぅとだけ言って、その事情自体は話はしなかった。未だ警戒を解いていないのか、それともそのうち知れることなのか、知らなくてもいいことなのか博雅には分からなかった。

 もう少しで丸木橋が見えるというところで乗垂は立ち止まり、紅蓮がしたのと同じように周囲を見回した。

「大分、集まっておられますな。」

 そう、一人ごちる。

 博雅も周囲を見渡すが、彼の視界にはたださざめく木々があるだけだった。しかしながら「何か」がいるという気配だけは感じ取れた。そして乗垂が己の表情を窺っている事に気が付く。その表情に嫌悪感や恐怖が浮いていないことを確認した乗垂は、参りましょうと言って先を促した。

 一方丸木橋の向こうでは、二人の気に逸早く気が付いた紅蓮が和琴を奏じる手を止め、被衣を手に走りばさっと時行に被せた。そして一度強く抱きしめて時行の動きを完全に止めると、耳元で一言来客とだけ囁いて離れた。

 うすい墨染めの水干服を翻し、丸木橋を走って渡り紅蓮は二人を出迎えた。そして丸木橋の向こうの状況を伝える。

「この方が氷晶殿が探されていた御方ですか?」

 挨拶もそこそこに、博雅が単刀直入に乗垂に問う。乗垂は苦笑交じりに肯定の意だけを伝える。そして何事かを言い返そうとした紅蓮を目で制した。すると博雅は名を名乗り、何故自分がここに来たかを述べた。紅蓮の反応はいつもの事と言わんばかりであり、もう御用はお済みでしょうか。とまで言った。その態度を乗垂はたしなめ、博雅に非礼を詫びる。

「良いのですよ。私も浅はかでした。あと、願わくば先程の続きを聴きたいのだが、構いませんか?」

 紅蓮は丁寧な博雅の態度に警戒心を抱きつつ、博雅を一瞥し、その後乗垂に視線を移す。それから溜息と共にきびすを返すと、時行の元へと駆けて行った。その軌跡を見て、博雅は絶句する。

「一体この先には何が?」

「向こう側には念が渦巻いておるのです。谷は昔はもっと幅狭く、橋も元々取り外し出来るものだった。と聞いております。」

 乗垂はここと向こうを隔てるこの地形を、遺棄された子等が戻ってくるのを防止していた天然の柵であることをほのめかす。そして向こう側の奥には、猿でも登ることすらも出来ないような岩壁があるということも伝えた。返す言葉が見つからず、博雅は下唇を噛み締めた。

 紅蓮と時行の会話は子供が待つには長く、周囲の雰囲気がどことなく淀んでくるのが乗垂と博雅にもはっきりと感じられた。遠目から時行ががっくりと肩を落とすのを目にした二人は、交渉が成立した事を悟った。紅蓮が中空に何かを話しかけた後、二人の元に駆けてくる。

「渡れますか?」

 紅蓮が二人に尋ねる。それは寺の住職とはいえ、乗垂はこの丸木橋を渡る事はないことを示していた。すっと紅蓮が乗垂の方に手を差し出す。

「博雅様はどうなされますか?」

 二人の視線を受け、博雅は返答に窮した。乗垂はともかく、元服も済ませたいい大人が女性にょしょうのような青年の手にすがって橋を渡るなど、博雅は考えたくはなかった。かといって、一人で渡れるかというと、否であった。

「御自分の身の安全を先ず第一にお考え下さいませ。」

 そう紅蓮は言って乗垂の手をすいっと取ると、確かな足取りで乗垂を向こう側へと導いていった。

「お気をつけ下さい。かなり気が立っておりますから。」

 橋を渡り終えた乗垂にそう言うと、紅蓮は博雅の前に立った。やりにくそうにおずおずと手を出した博雅の手を丁寧に取ると、紅蓮はゆっくりと向こう側へと歩を進めていった。その間、博雅の目は紅蓮の手に釘付けだった。どういう指が和琴の音を紡ぎだしていたのか。その答えが自分の手中にあるのだ。興味が湧かぬ筈がない。

 橋を渡り終え、乗垂の隣に並んだ事にも気が付かず、博雅は紅蓮の手を放さず見つめていた。苦笑交じりに乗垂が博雅の名を呼ぶ。自分が何をやっているか気が付いた博雅は、慌てて手を放して紅蓮に謝った。その頬が僅かばかり染まっていた。

 どろりと澱みのひどくなる雰囲気の中、三人が被衣を着用した時行と向かい合う形となる。

「姿を晒したくないとのご本人の希望でしたが、諦めてもらいました。故に他言無用にお願い致します。」

 時行の横に立ち、紅蓮は二人に頭を下げた。かくいう時行は大袈裟に溜息をついてみせ、被衣を取り払って紅蓮に手渡した。光の中に長く真っ直ぐな薄鳶色の髪が広がる。それを手早く後ろに流し、時行はその双眸そうぼうに二人を映した。そしてろうかんの如くとろりとした光沢を放つ瞳はすぐさま紅蓮に向けられた。

 紅蓮が不満を持った子等をなだめ、場を浄化する為にしゅの詠唱をする旨を二人に伝え、一定の距離を取った。時行もそれに倣って同じくらいの距離を置く。

 そして、大凡おおよそ成人男性では出す事さえも出来ないような高い声域による呪の詠唱が始まった。

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